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インタビュー

結月美妃の着物読本(4)着物はコスプレであってはならない

今は着物が特別なものになってしまって、街でも着物姿を見ることはほとんどありません。あったとしても、わたしの目から見て、着こなしているなと思えるひとは滅多にいません。

では、着物を着こなすとはどういうことか? 実はそれは着付けをバッチリと仕上げることではないのです。

昔、宇野千代という作家がいて、彼女は着物のことが好きで自分で着物のデザインもし、銀座に着物の店もオープンし、着物雑誌まで刊行しました。

宇野千代の着物姿の写真はたくさん残っていて、今でも簡単に見ることができます。でも、正直、上手な着付けではありません。さらに言えば、あまりいい趣味の着物でもないです。

ところがあんなくだけて、ぼってりとした着付けでも、これが宇野千代だという雰囲気が出ているのです。まさしく着物を着ているんだなと実感できるリアリティがあるわけです。

それに比べると、お金を払って着付けてもらっている今の着物姿のほうがよほど整っています。でも、それらは着物を着こなしている、とは言い難いものばかりで、着ているひとが張りぼてのように安っぽく見えます。

つまり、自分で着付けておらず、そしてほとんど着物を着たことがないようなひとが着付け師に着せてもらったところで、それは七五三のような姿に見え、着物が肉体から浮いて見えるのです。

わかりやすく言えば、着物が自分のものになっていません。

まるで着物だけが宙に浮いているようで、着ているひとの存在感がまるでないのです。

しかし、宇野千代の姿は、着付けはいい加減でも、着物がしっかりと身について、着物の宇野千代というように着物と一体となった存在感があります。

着こなすとは、こういうことを言います。

一年に一度どころか、数年に一度、いえ、十年に一度くらいに着物を着るのであれば、それはコスプレです。

逆にコスプレでないもの、わかりやすいのは女子高生の制服姿です。

女子高生は制服を日常に着ます。ですから、私服でないのに制服姿に違和感はなく、制服と肉体は一体となり、不自然さはありません。

ところが普段制服を着ないひとが、女子高生のコスプレをするとどうも違和感が漂います。制服と着るひとの肉体が一体とならず、制服だけが浮いたように見えませんか?

また、就活の際の学生のリクルートスーツ姿。これもしっくりときません。スーツ姿が馴染んであらず、それゆえに目立つのでしょう。

一方、デパートでの受付嬢、化粧品売り場の美容部員、皆、それぞれの会社の制服を着ていますが、違和感はありません。毎日仕事で着ているのですから、制服がそのひとにこなされていて、一体化し、そのひとの存在になっているからです。

着物は制服ではありませんが、ひとつの”形式”がある点で、制服的なところがあります。

着付けという一定のルールがあるためです。

そういう意味で、着物には制約があり、それゆえに統制の取れた美しさを追究することができます。洋服の私服やパジャマなどの部屋着とはここが大きく異なります。

ですから、着物を着こなすということは、着る回数をこなし、その正絹の布地が自分の肉体と自然に一体化することを言います。着付けの上手い下手はその次の話です。

これはできれば、着物の袖も裾も、その動きが自分の存在と一致して、まるで肉体の一部のようになります。

そうなって初めて、着物の装いが着るひとの魅力になり、「あなた自身」になるのです。

都合のいいときだけいくらきれいに着付けてもらっても、それはコスプレと変わりがありません。

着ているひとの芯から着物姿でないと、本当の着こなしは得られません。

しかし、これは難しいことではありません。とにかく、着物をたくさん着さえすれば、自ずと着物のキャラクターができあがってきますから。

着物は着る場所がないというのは言い訳です。着ようと思えば、いくらでも着る機会は作れます。

結局のところ、着ようとするのか、しないのか、その選択でしかありません。

着物の美しさを手に入れたいのか、そうでないのか。

それを面倒だと思うか、思わないのか。

着物に限らず、できるひととできないひとの違いは、「やるか、やらないのか」でしかありません。