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インタビュー

結月美妃の着物読本(2)楽しいの前に「美しい」

着物というのは、着る物であって、定義するには広すぎるし、洋服ではない日本の衣装が着物と言われています。

大昔は服と言えば着物しかなかったので、着物を着ることが普通であり、そんな気張るものでなかったはずです。

昭和初期など洋装をするほうが珍しく、モダンボウイ、モダンガールなどと呼ばれていたようですから、やはり着物のほうが日本人にとっては当たり前だったと言えます。

それが今は洋服のほうが主流になって随分長い時間が経ったので、日本人でも着付けは自分でできないことが標準で、だからこそ着付け教室があります。

ともかく、着物を着ているほうが特別であり、自分で着付けができると驚かれるし、着物を着て出かけると、

「今日、何かあったの?」

と言われる始末で、すでに着物は日本人の根っこからは離れてしまった異文化のような扱いです。

ですから、着物を着ることがコスプレをするのと同じような特別感があって、その上で着物はどうきるべきかなんて話が出てきて、形骸化した議論になったりします。

本当は簡単なことで、着物は衣装で、身にまとって着る物なのだから、基本的には考え方は洋服とは変わりないです。

「ハレとケ」の区別があり、結婚式に招かれたときはハレだから洋装であればジーンズではなく、ちゃんとしたドレスを着るのと同じく、着物であれば紬ではなく訪問着や紋入りの色無地を着て袋帯とか、扱いは同じなのです。

逆にケのシーンであれば、小紋で済ませたり、夏だと麻の着物を着たりすればいいだけのことですね。

ところがやはり着物自体が洋服と違って特別なものになってしまったし、自分で着付けられないとなると、ケのシーンでケの着物を着ようと思っても特別なものになってしまいます。

どうもこういうところから今の着物への考え方がおかしくなってきているのだと思います。

着物は非日常的なものだから、それを着ることに楽しさを見出すようになります。精神構造としてはコスプレと同じです。

それでも楽しいほうがいいので、わたしも着物を着て楽しいというのは大変結構なことだと思います。

でも、わたしとしては、楽しいの前に「美しい」が着物への考え方です。

「楽しい」はつまり主観的ですね。自分が楽しいわけですから。

ところが「美しい」は社会的なものです。すなわち、ひとに不快さを与えず、美しさを周囲に感じさせるという自分の主観よりも他者にどう見られているかという視点です。

美しいものを見て、悪い気分になるひとはいません。花を見ていい心地になるのと同じく、着物も美しい着物を美しく着付け、美しく立ち振る舞っている女性は見ていると気持ちがいいものです。

自分の楽しみだけで着てしまうと、それこそ、ひとの手垢のついたリサイクル着物でも安ければいいと思うし、着物の時代が古くて、色彩も図案も今の時代や街並みに合わないものでも楽しければそれでいいと思います。

それはそのひとの価値観でいいとは思いますが、正式なハレの場では、招かれた立場として、招いたひとの顔をつぶすような着物のチョイスはするべきではないでしょう。

自分の主観ではなく、相手の気持ちになって自分の着物を選ぶということが、着物を着るひとの礼節であり、美しくいるための大きな理由です。

その礼節は着物が特別なものになった以上、昔よりもきっちりとしなければならないとわたしは思います。なぜなら着物は着るひとが少なくなったぶん、とても目立つからです。

目立つからこそ、美しさを第一と考えて着物を着たほうが社会に喜ばれる。

ファッションというのは、自分の好き勝手に楽しむものも確かにありだし、同時にその場にふさわしく、かつ誰もが心地よく思う美しさを身にまとう意識も大事です。

わたしの考えでは、楽しさも理解はできるけれど、その前に「美しさ」の認識があったほうがいい。

どちらに重点を置くかは、ひとそれぞれではありますが、結局のところ、類は友を呼ぶで、どちらに属するかみたいな結果になるのでしょう。

個人の趣味で留まらせるのか、それとも自分が社会の中でどう振る舞うのか、そこが大きな違いなのではないでしょうか。