夢二の絵を見ると、キモノなんてこんなものだと思います。つまり、キモノでなく、着物。もしくはきもの。着る物だから着物。でも、今は日常的でない特別なものだから「キモノ」。
また夢二はくだけた女が好きだし、絵のタッチも柔らかくて緊張感がない。でも事実、昔は着物とはいってもこんなものだったのでしょう。
大きく開いた衿元。着物で立て膝。蚊帳から眠そうに出る女。夜な夜な厠へにでも行くのでしょう。
こんな着物の着方は今の着付け講師は教えてくれません。むしろ怒られそうです。でも、日常生活とはこんなものです。今の着物はあまりにも非日常的過ぎる。
黒地の着物に黄色い半衿。そして赤い帯。袖口からは赤い柄物の襦袢が零れている。深い緑の着物にはオレンジの帯。そこにはひと筋の紫色の帯締め。半衿と襦袢は赤。白、水色、葡萄色の襦袢に黒い伊達締め。
こうした色のコーディネートが実に自然にまとまっています。これらは夢二の色彩センスでそう描いたのかもしれないし、実際に女たちが着ているままに描いたのかもしれない。しかし、自然だ、という印象から、この時代の日本人はこうした色彩感覚を当たり前に持っていたようです。
今、着物の仕事をしていると、意外にも着物の色あわせがわからないというお客さんが多いことに驚きます。とにかく、着物と帯や、そこにどんな色の帯揚げと帯締めを持ってきたらいいのか皆目わからないと言うひとは大変多い。
確かに街を歩く女性の洋服を見てみても、色彩的にうまくまとめているひとはそう多くありません。夢二の時代は大正時代ですが、どうも現代人は色彩感覚が退化してきているのかもしれない。
また、大正時代は今よりも普段着としての着物の色も種類もたくさんあったでしょうから選びやすかったに違いありません。本当に気軽に色あわせをしていたことでしょう。
しかしながら、今の呉服屋ではそうはいきません。まず日常着としての着物が少なすぎるし、色あわせをゆっくりしたくても喧しいセールスでそれどころではない。日常着を買いたくても、値段の高い訪問着を勧めてきたりする。
とにかく今の呉服屋の勧誘の強引さは着物のイメージダウンに大きく貢献しておりますが、客を囲い込んで無理やり分割払いで買わせる展示会商法も以前に比べて随分少なくなったことはいいことでございます。
無論、良心的な呉服屋もありますので一概には言えないのですが、どうも呉服屋というとイメージが悪い。それにそもそも今の呉服屋は着物を売っているくせにあまり美的センスがありそうにない。
と、少しばかり話が逸れましたが、やはり一見して「自然だな」と感じさせるという着こなしはつまり、「似合っている」ということです。自分に似合った着物の色あわせができ、そしてそれを普通に着る。
今は着物が特別な存在だから、この「普通に着る」ということが皆さんできない。別に硬く考える必要はないんでしょうけれど。
4月になるとリクルートスーツに身を包んだ新人の社会人がぞろぞろと街の中に出現しますが、どういうわけか一目見て新人だとわかります。今まで学生をやっていたものだから、スーツが肌に付いていない。服が浮いて見える。
たまに着物を着るひとを見るとこれと同じですぐわかる。普段着物を着ていないとすぐわかる。着物が浮いて見える。
しかし、同じスーツを着ているはずなのに5月くらいになると新社会人の姿は見えなくなる。どこかにいるはずなのに見えなくなる。これはスーツが身についているからです。
着物も全く同じ。今は毎日着るのは難しい時代だけれど、普通に着られるくらいに慣れてくると着物が自然と体に馴染んできます。それを着こなしていると言うのです。
すると夢二の絵のように、ごく自然に、だらしなく、着物を着ることができるのです。
洋服はだらしなく着られないものですが、日本の着物はだらしなく着るとそれはそれで色気が出る不思議なものです。
着物はきっちりと着なければならないと今のひとは気張るけれど、それはきっちりと着なければならないシチュエーションのときにそうすればいいだけであって、普段着る着物にそんなに気張る必要なないのです。
つまり着物はフォーマルなものだけではないということ。なのに今はフォーマルなものだけが着物の着方だと勘違いされていて、だから紬なんて普段着なのに、バカみたいにズンドーとかいってタオルを詰めて着ていたりする。
普段着を着るのに、そんなに苦しく着て、「ど・う・す・る・の・?」
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