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vol.6 「~夏、花火、浴衣、結月~」

夏。

といえば、

浴衣、

の、ことを書かなければ仕方ありますまい。

近年は花火大会となると浴衣を着ていくお嬢さんも多く、銀座からほとんど一歩も外に出ることがないわたしでも浴衣娘がたくさん歩いているのを見ると、ああ、どこかで花火大会かしら?と思う。

そういえば去年。

の夏。

銀座中央通りを歩いていると、ふたりの浴衣娘がガツガツ歩きながら、お互いの姿をデジカメで撮影しながら歩いている。

「ゲッ! 何、この女!?」

ちょっとその着方、なんとかなんないの? ピンサロの“夏本番! 浴衣祭り!”のピンサロ嬢だってもう少しましな着方してるわよ。丈は短くて裾も広がっているから脚は不自然に見えてるし、ペラペラの安物の浴衣な上に裾除けしてないから太陽光線で生脚がスケスケだし、そのくせパンツは穿いているからパンツまるスケだし、エビちゃんだかなんだか知らないけど、そのカールしまくった髪型何それ?

今のひとは着物のことを知らないから一応書いておくけれど、本当は着物にはパンツなんて穿かないのよ。裾除けすりゃ、中なんて見えやしないんだからね。なのに裾除けしないで、パンツ穿いて、パンモロって何考えてんの?

まあ浴衣はもともと湯上りのものだから、裾除けだっていらないのかもしれないけれど、それは家で着るときの話。今は浴衣で花火大会だとか外出するんだから裾除けくらいしなさい。しかも、ここは銀座よ、銀座!

知らないということは恐ろしいことでございまして、当の本人たちは銀座で浴衣デビューでいい気持ちなのでございましょう。だって、お互いの姿をデジカメで撮影しているのですから…

「わたしを花火に連れてって」

と、こんな台詞を彼氏に言ってる貴女。ちょっと、貴女よ、あなた!

あんた、花火を見るより、浴衣を着たいんじゃないの? 浴衣着る口実に、彼氏に花火に連れてって、な~んて言ってない?

ところで一昔前、『わたしをスキーに連れてって』というバブリーな映画があったけれど、あれはもっと前のフランク・シナトラのミュージカル『わたしを野球に連れてって』からきているのよ。

と、関係ないことはいいとしまして、実は花火より浴衣が着たい貴女。ちょっと見込みがあるじゃない。ちゃんと浴衣を着たいんだったら、「ウチにいらっしゃい、ウチに」。わたしがちゃんと着方を教えてあげる。もうホント!に、女子(おなご)はちゃんと教えないととんでもない着方するわ。

でもね、浴衣程度でもちゃんと着こなした日本女性は色っぽいから、きっと貴女の彼氏は欲情するに違いない。欲情した彼氏に浴衣を脱がされてもちゃんと着られるようにしておかなくっちゃね! 訪問着だとかまともな着物はめったに男に脱がせるものではないけれど、浴衣なんて簡単に脱いで、簡単に着ちゃいなさい。

ところで…

わたしは花火はもちろん嫌いではないけれど、こうかれこれ何年も花火大会に出かけたことはなく、銀座にいるのだったらせめて隅田川の花火大会くらいは行ってはどうですか?と言われるけれど、わたしには全く行くつもりがないのです。

行けばきっときれいには違いない花火ですが、どうも夏は暑くて、暑いのが苦手なわたしはエアコンの効いた室内でゴロゴロしているほうが快適でございまして、おそらくこれから先も花火大会に出向くことはありますまい。

しかし、現代の花火大会はどうも忙しない。どこへ行ってもひとだらけで、どうも落ち着いて見られる雰囲気ではございません。広重の『江戸百景』なんかの江戸の風景は広大で、今みたいに隅田川のそばにはビルなんか立ってやしないし、広々としたところで人々が酒を飲んでいたりするのだけれど、そんな江戸の風景に花火が上がればそれはそれは美しい光景に違いありません。また、画中の江戸っ子たちは当たり前だがみんな着物を着ていて、まあ日本という国のきれいなこと!

でも、今の花火大会は行けば疲れそうで、人ごみに揉まれて、ずっと立ち見。コンクリートのビル群が情緒をかき消すし、花火自体は江戸時代と変わりなくきれいだろうけど、ちょっと環境が悪い。花火を見に行って疲れるようじゃ、わたしは勘弁。それなら花火大会に客を取られて閑古鳥が鳴いている夜の酒場でゆっくりとお酒でも飲んだほうが落ち着けるわ。

 女バーテン:「いらっしゃ・・・ あれ、結月さん、花火大会、行かれないんですか?」
 結月:「行かないわよ。わざわざ人ごみなんかに。それに暑いじゃない」
 女バーテン:「今日はご覧の通り、暇で暇で」
 結月:「だから来たのよ。いいお客さんでしょう?」
 女バーテン:「助かります。で、何にします?」
 結月:「ウォッカトニック頂戴。ライムじゃなくてレモンでね」
 女バーテン:「でも、浴衣で花火、行かないんですね」
 結月:「だって、着物なんていつも着てるし、わざわざ花火のために浴衣なんか着ないわよ」
 女バーテン:「それはそうでございます」
 結月:「でもほんと、静かね・・・」
 女バーテン:「お客さんが誰もいないなんてあまりありませんからね」
 結月:「みんなが花火を見ているときに違うことやるなんてちょっと気持ちがいいわね。学校で体育の授業、ずる休みして木陰でのんびりしているような気分だわ」
 女バーテン:「よくずる休みされていたんですか?」
 結月:「そうよ。体操服みたいにみんなで同じ服着て、整列したりするのなんていやだもの」
 女バーテン:「ふーん」
 結月:「そういえば浴衣って花火大会の制服みたいね、今じゃ」
 女バーテン:「そうですよね。みんな浴衣を着ますよね。でも結月さんは日本人に着物を着てほしいんじゃないですか?」
 結月:「そうよ。でも、花火大会でしか着ないってことは制服と同じよ。自然じゃないわ」
 女バーテン:「今、みんな着ないですからね、着物」
 結月:「着物っていうのは着こなしてこそきれいなものなのにね」
 女バーテン:「あっ、始まったようですよ」
 結月:「・・・ほんとだ。聞こえる…」

とまあ、こんなやり取りをしながら客のいない酒場でウォッカトニックを頂くとさぞかしおいしいに違いない。

う~ん… しかし、よく考えてみればどうして花火大会で浴衣なのだろう? 花火なんて別に日本だけのものじゃないし、どこの国だって花火はある。それがどこかで日本的イメージとなって、日本的イメージの浴衣と直結している。

まあ、浴衣なんてもともと湯上りに着るようなものだから、ちょうどお風呂で汗を流した時刻に花火が打ち上げられて、それを縁側などから眺めるといったところなのでしょう。

確かに浮世絵にも、もしかすると山下清の貼り絵にも花火に浴衣という絵があったかもしれない。

ドーン! ドーン!

「うわー きれいだね~!」

どうも花火と見たとき感動というのはあまりたいした日本語を使わないらしい。「うわー」とか「うおー」だとか、「おお!」とか、いやこれは日本語ではなく感嘆詞です。せいぜい「きれいー!」か「すご~い!」というくらい。

「うん、今の花火の色彩を見たかい? 中心に紅色、そこから一気に青と緑の火花が天空に広がるんだから驚きだね」

な~んて言っていたらもう次の花火が打ち上がっています。

あー、そうか! 花火はあまりにも一瞬に花開いて一瞬で消えて、すぐ次の花火が打ち上がる連続だから、言葉で感動している暇がないから、「うわー」とか「うおー」になるんだ。

でもさー、言葉使わないから、花火見ているひとって頭悪そうに見えるよねっ!

「よっしゃー! センター前抜けたー! よし、よし、回れ回れ! キー! タッチアウトかよ! くそっ! バカ野郎! あ~あ、逆転のチャンスだったのによ! 畜生!」

いえ、多少言葉を使っても野球ファンのほうが品がなくていけません。まだ、花火のほうがその感動は純粋で悪意がありません。

それにしても日本人が着物を着なくなって久しいし、花火大会のときくらい浴衣とはいえ着物を着るのだから、まあいいことであると言えそうです。しかし、今の浴衣はちょっと色や柄が悪い。

美意識のない呉服業界が安上がりの外国なんかでプリントものの浴衣を量産するものだから質の悪い浴衣がスタンダードになってしまいました。また、色彩も今風だか何だかしらないけれど、マジックインクで塗ったような汚い色合いだし、外国人向けの土産物売り場でしか売られていなかったような劣悪なものが“普通”になってしまいました。

困ったことに今の若い人は浴衣とはそういうものだと思ってしまっている。これは伝える側の責任です。

まあ、今の日本人の洋服の選び方なんかを見ても、結局は呉服業界だけでなく、日本人全体に美意識がなくなったと言える事態でございますが、浴衣は古典調のものが最も美しい。

ド派手な色合いの浴衣娘の大群をみると、どこかの遠い国のジャングルに生息する毒ガエルみたいで、それに髪型だって黒じゃない上にカールや何やらもうグチャグチャでそれがカワイイ!!なんて言ってるんだから、もうこの国は日本じゃない。

国によって色彩感覚は異なり、例えば同じ赤と言っても日本人の感じる赤と中国人のそれとは全然違うし、イタリア人の赤とも違う。

同じカエルといっても日本のアマガエルの色とどっかのジャングルの毒ガエルの文字通り毒々しい色とは違うのであって、そんな色彩を見れば普通違和感を感じるものなのですが、どうやら今の日本人は違和感を感じなくなったらしい。

まあ、汚ギャルの存在がリポートされたときは驚いたけれど、今では汚ギャルなんていくらでもいるようだし、古い日本には、女の子のお部屋は可愛くてきれいなもの、と相場が決まっていたのですが、これまた今は昔。

時代が変化することは止められないし、変化するものだからいいのだけれど、問題はその変化の仕方にあります。きれいな方向に変化すればいいのに、どうも汚く変化していくというのはスーパー耽美主義のわたしなんか、もう耐えられない。

しかし、先ほどの酒場でのわたしと女バーテンのやり取りはどうも面白くない。登場人物をわたしにするとどうも平凡で、あまりにも日常的過ぎてひとに読ませる価値はありません。

ちょっとシチュエーションを変えてみましょう。

ある酒場。夏の夕刻。外はまだ陽が残っている。初老のバーテンが誰もいないカウンターの奥でグラスを磨いている。そこに女、登場。水色の薄物の友禅。着物からは薄っすらと白い襦袢が透けて見える。

バーテン:「いらっしゃいまし」
 女:「あら、今日は随分と静かなのね」
 バーテン:「花火の日には毎年こうです」
 女:「じゃあ、いやな花火ね。わたしも嫌い」
 バーテン:「花火が嫌いなひとも珍しい。で、何にします?」
 女:「ウォッカトニックを頂けて?」
 バーテン:「はい。檸檬で?」
 女:「ええ、檸檬で」
 バーテン:「今日のお着物もきれいで」
 女:「どうもありがと。外じゃ、みんな浴衣だから、薄物の着物を着てきたのよ。厭味なのよ、わたし」
 バーテン:「よくお似合いです」
 女:「この着物だって、あと何回着られるやら。夏にしか着ないのだから… ねえ、わたしの生涯であと何回夏を迎えられるのかしら?」
 バーテン:「まだお若いのに…」
 女:「でも限りがあるものだわ。きっとそれは運命によって決められているに違いない。この着物を着る回数までもが」
 バーテン:「わたしだってあとどれだけこうしてお酒を作り続けられることやら」
 女:「花火大会だって、最初の花火が打ち上げられて何万発かの花火が連続して空に花開いて、最後に思い切り大きな花火をまとめて打ち上げて有終を飾る。つまり終わりがある」
 バーテン:「なら、このカクテルも一発の花火のひとつというわけです。はい。お待ちどう様」
 女:「よかった、今日も着物が着れて。いつか死ぬんですもの。きれいな着物を着ている日が一日でも多いほうがいいわ。ねえ、どうしてみんなきれいな着物を一日でも多く着ようと思わないのかしら? どうでもいいような洋服を着たりして、もったいないと思わないのかしら? わたしは毎日花でいたいの」
 バーテン:「花の数より、雑草のほうが多いものですよ。ところでどうして花火がお嫌いで?」
 女:「ひとが皆、同じことをするには背を向けることにしているのよ。だから…」

と、今月はこのあたりでやめておきましょう。実は今月の「今月のおハナシ」は実験的なことを少しばかりしてみたのです。かつて絵画ではキュビズムが生まれたように。いえ、今回はどちらかというと、横尾忠則の絵の手法を文章に取り入れてみるとこんな感じなのではと思ったのです。

そしてこれは途中でやめてしまった。しかし、絵画にも意図的な未完成の作品はたくさんあるし、どこかに塗り残しがあってもいいものです。

わかるひとにはわかるだろうし、わからないひとにはわからない。でも、これでいいのではないでしょうか? わからないひとのためにわかる文章を書いたところで、新しい表現方法は生み出せないし、わからないひとのための文章なんてわかるひとには退屈に違いありません。

この実験は成功したかどうかはわかりませんが、近頃わたし自身がちょっと自分に退屈していたところだったのでございます。

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